2010年1月21日

手書きの文化

今年は数年ぶり (十年くらい?) に年賀状をもらったり書いたりしました。 しかも手書き。片手で数えられる程度であること、引っ越したばかりでプリンタを使えるようにしていないこと、 という理由がありますが、限られたスペースに何かを収める、しかも書き直しはできない、という行為は久しぶりだったような気がします。 後には引けないといった感じでしょうか(笑) 年賀状のお年玉商品の抽選は今週末の1月24日だそうなので、ちょっと楽しみです。 まぁ、当たらないとは思いますが...

新年といえば年賀状だけでなく「書初め」なる行事もあります。 小学生の頃は書道教室に通っていましたが、最後に毛筆を使った記憶は既にありません。 そんな社会人も多いとは思いますが、今日出社してみると、ビルのエントランスに小学生の書初め作品が展示されていました。 年末にはクリスマスツリーを飾るなど、なかなか展示物に季節を感じるビルです。 あー1月だなぁ、と思うと同時に、いまどきの小学生でもちゃんと習字とかやるんだなぁ、と妙な安心感を抱きました。 だからといって、よし、自分も書初めでも書くか、という気はおきませんが、落ち着いて何かを書くのも良い気分転換になります。

で、帰宅してみると郵便ポストに葉書が届いていました。 先日行った美容室の美容師さんからの手書きのものでした。 パソコンでテンプレートを作って名前を差し込むだけになった手紙や葉書が多い中で、 全部手書きでイラストまで描いてあるなど、手が込んでいます。

電子化を進めることが悪いことだとは微塵も考えていませんが、使い方のさじ加減がまだまだ難しいな、と感じています。 デジタルに保存しておけば後から検索できる、とか、ナレッジベースに蓄積して共有できるようにするんだ、とか、もっともらしい理由付けは何とでもなりますが、 やはり手書きの方が印象に残ることは間違いありません。 感覚的にではありますが、手書きの方が助詞が連続するような間違いも少ないと思います。 英語圏では連続する単語の重複は誤りである (*1) としてしまうようですが、日本語では「明日のの天気はは晴れです」といった誤りが散見されます。 そんなことはソフトウェアでなんとかしろよ、という考えにも反対はしませんが、 そもそも書く人が漢字や用法を誤解している場合には対処のしようがありません。 また、軽微な間違いを指摘されるのを不快に感じる人間心理もあると思います。 「意外」を「以外」と変換して誰かに見える状況にしてしまい、後で気づいたものの訂正するほどじゃない (*2) と思ったら、 見た人からそこだけ指摘された、などの類似体験は多くの人にあると思います。

では結局どうすべきか?はとても難しい問題ですし、 朝日新聞の天声人語 がどういうニュアンスでルビコンの向こう岸 (*3) を指しているかは分かりませんが、 高度に発達した IT 技術が魔法のように手書き文化を吸収していけるようになっていくと良いなぁ、と思います。


(*1) UNIX プログラミング環境 page:184

大きな文書を編集しているときには、(いままでの経験からいって) 誤って同じ語を2つ続けて書いてしまうことがよくある。 これが意図的に書かれたものであることはまずない。
c.f. Grammer Writer's Workbench

(*2) メーリングリストに投稿した場合に、その誤字を訂正するために再投稿するのは気が引ける、など。

(*3) ルビコンは慣用句としては後戻りできないという意味合いで使われることもあるが、 ルビコンを越えたカエサルはローマ帝国の基礎を築き、実質上の皇帝とも言える終身独裁官に就任したので、 悪い方向に進む、というよりは、意思を強く持って何かを成し遂げる、ととらえた方が史実には即している。 「書くから打つへ、日本の手書き文化は、もうルビコンの向こう岸に近い。」を後者のように解釈すると、 この天声人語の意味するところは全くもって謎である。 なお、ローマ帝国に関することは「ローマ人の物語」を参考に考えている。

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