2010年7月31日

繰り返す歴史、それに関する知識と教養

先日ふと、「賢者は○○から学び、愚者は××から学ぶ」っていうからね(笑)、と後輩をからかったらポカンとされました。 知らないのね... と思った数日後に、同じことばを使っている先輩を見かけました。 その時にその先輩は翻訳エンジンを使って英語にも変換していましたが、完全にオリジナル (オリジナルが英語ではない、というのはさておき) のエッセンスは抜け落ちていました。 これを見た後輩は何を思うのだろう、と不安になりましたが、見ていないことを願うばかり、とだけで何も伝えていません。

過去の研究事例を見つけたとき

ことわざを知っている、あるいは多岐に渡って知識が豊富、それ自体が意義深いことだとは思いませんが、時系列の中で物事を考えるのは大事だな、と再認識しました。 そんなことを感じたのが今日の LL Tiger での HPC に関するセッションです。 HPC の細かいことは不勉強なので分かりませんが、どの分野でも試行錯誤の繰り返しは重要です。特にそれを繰り返す回数と、繰り返しに要する時間。 スポーツをしていると、練習はウソをつかないことをまざまざと見せつけられます。体力的な問題だけでなく、次のプレーに対する瞬発力や思考能力も同様です。 もちろんコンピュータを扱う場合でもそれは変わらず、タイピング速度やプレゼン時のデモの円滑さ、ルーティン・ワークの処理方法などがこれに該当します。

時間の流れを個人の感覚で考えた場合は上記の内容が浮かびますが、もう少し大きな枠組みで考えると、数年前あるいは数十年前に発表された論文に目を通したときの衝撃がこれに該当します。 正確には、これは新しいかもしれない、と自分が思ったことが実は数十年前に練り上げられていた、と気付いたときでしょうか。 上述の HPC に関するセッションで発表していた方が似たような衝撃を受けていたのがとても印象的でした。 少し前に自分も Google Wave の OT (Operational Transformation) に関して同じことを感じたので、印象がより一層鮮烈でした。

ことばの翻訳

最近の Web 業界では "social" がひとつのキーワードになっています。"Social Game" や "Social Graph" は猫も杓子も、という感じです。 別に流行廃りを嘆いているわけではありません。流行が出来上がって多くの人が何かに盛り上がってお金が動いて経済が活性化するのは大歓迎です。 それを否定するのは単なる僻みでしかありません。まぁ、僻んじゃいけない、ってわけでもありませんけど。 個人的になんかイヤだなと思うのは、それらの多くが英語もしくはそれをそのままカタカナにした言葉であることです。何より、それがよりによって "social" という言葉であることです。

明治時代に多くのモノ・コトが日本 (一般市民レベルにまで、という意味) に入ってきました。当然ながら英語もそのひとつで、当時の知識人は懸命に翻訳したそうです。 その成果のひとつが "social" を「社会」と訳したことだと思います。

目に見えるものを翻訳することは比較的簡単です。椅子とかテーブルとか。テーブルはカタカナですけどね(笑)。 しかし、概念を翻訳することは一筋縄にはいきません。言語A で表現している概念を言語B の民族 (※:同じ言語を話している人たちの集まり、という意味で使用) が持たない場合、それを伝える手立てはありません。 そもそも言語B の民族にはその発想がありませんから。他の言葉を組み合わせて言の限りを尽くして説明できるかもしれませんが、存在しない考え方を相手に伝えるのはとても難しいことです。

"social" を「社会」と初めて翻訳してからどれだけの歳月が経過したかは分かりませんが、最近は "social" は「ソーシャル」です。 戻ってしまった現実を嘆くのではなく、「社会」という概念が日本には根付かなかったんだろうな、と思っています。 "computer" も一緒です。計算機室と呼ばれていた部屋はコンピュータルームであることがほとんどだと思います。計算工学よりはコンピュータ・サイエンスです。

次のN年

こうしたことは周期的に繰り返すことだと思います。周期が2,3年なのか10年単位なのか、はたまた100年越しなのかは対象によって異なりますが、その時々で周囲を取り巻く環境も変わっていきます。たとえば、タッチ・インターフェイスあるいはサーフェス・コンピューティングは、ユーザー・インターフェイスにおいて割と歴史のある領域だと思いますが、ティッピング・ポイントを迎えたのは iPhone/iPad あるいは Android の登場によってです。実際、外食しているお店に自分以外に二組のお客さんがおり、そのどちらもが iPad で遊んでいます。10年前では考えられない光景です。 概念や理念の問題だけでなく、インターネット回線のような社会的なインフラの充実がこれに寄与していることは疑いようがありません。 液晶ディスプレイや、タッチ・イベントを扱うためのソフトウェアの充実もあってのことです。 時代の後押しがあってこそのティッピング・ポイントです。

必ずしも賢者である必要はありませんが、自分以外の人の経験から学べるようにありたい、とは思います。今は日の目を見なくてもいつかは認められること、逆もまた然りです。 会社できちんと働き始めてから今日で二年が経過しました。身の処し方を考えることはもちろんですが、日々学び続けていければ良いな、と思ったのでした。

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